ぼたむす日記

アラフィフおひとり様のつぶやきです

【寓話】1枚の葉っぱを3枚と数える森で、何が起きたのか

ある森に、とても働き者のアリたちが住んでいました。アリたちは毎日、葉っぱを巣へ運ぶ仕事をしていました。

ある日、女王アリが言いました。「今日から新しいルールです」「葉っぱを1枚運んだら3枚運んだことにします」

若いアリたちは顔を見合わせました。「え?」「1枚は1枚じゃないの?」誰もが少し不思議に思いました。

でも最初に賛成したのは、巣の中で最も優秀だと言われているアリたちでした。彼らはすぐに計算したのです。葉っぱが何枚かは重要じゃない。評価されることの方が重要だ。

女王に認められれば、良い場所に住める。良い仕事ももらえる。それがこの森のルールだ。

優秀なアリたちは大きな声で言いました。「素晴らしいルールです!」「1枚は3枚です!」女王アリは大喜びしました。

それを見た他のアリたちも安心しました。頭の良いアリたちが言うなら、きっと正しいんだろう。

やがて巣の中は、「1枚は3枚!」「1枚は3枚!」の大合唱になりました。

そんなある日、巣の入り口から煙が入ってきました。森で火事が起きていたのです。何匹かのアリが叫びました。「火事だ!」「逃げなきゃ!」

すると優秀なアリたちは女王に聞きました。「女王様、火事です」女王は答えました。「今は葉っぱの集計中です」「関係のない話は後にしなさい」

優秀なアリたちは安心しました。女王がそう言うなら大丈夫だ。自分たちはルールを守っている。だから正しい。

彼らは再び葉っぱを数え始めました。他のアリたちも、頭の良いアリたちが大丈夫と言うなら大丈夫だろうと思いました。

やがて火は巣に届きました。それでも最後まで、アリたちは葉っぱを数え続けていました。

後になって森の動物たちは言いました。「あのアリたちは優秀だった」「働き者でもあった」「真面目でもあった」と。

森が燃えた原因は、火事ではありませんでした。考えることをやめたことでした。

おしまい。

お客さんを見ると、店主が見える。

ネイルサロンへ行くたびに、いつも不思議だなと思うことがあります。

そこは、美容院の一角を借りている小さなネイルサロン。
だから施術中、お隣の美容師さんとお客さんの会話が、自然と耳に入ってくるんです。

それで毎回、思うんですよね。

「みんな、びっくりするくらい似ているな」って。

話し方。
笑い方。
会話のテンション。
使う言葉のチョイス。

美容師さん自身もすごくフランクで、まるで友達みたいに話すし、よく笑う。お客様との距離がとても近いんです。

そして、来られているお客さんもまったく同じ。
まるで昔からの友人同士がしゃべっているみたい。

逆に、静かに過ごしたい人や、落ち着いた雰囲気の人、職人気質な空気感を求めるようなお客さんは、不思議とほとんど見かけません。

そのとき、ふと思ったんです。

人って、自分の意志で店を選んでいるようで、実は「店からも選ばれている」んじゃないかって。

集客って、人を集めることじゃないのかもしれない。
集客というと、多くの人は「いかにたくさんの人を集めるか」だと考えがちです。

でも、実際はきっと違う。

「集まる人が、だんだん似てくる」のが集客なんだと思います。

カフェもそう。
居酒屋もそう。
美容院も、たぶん同じ。

自然と、店主に似た空気感の人が集まって、増えていく。

だから、商売っておもしろいんですよね。

お客さんを見ると、店主の人柄が見えてくる。
店主を見ると、集まるお客さんの顔が見えてくる。

最近、「誰に来てほしいか」とターゲットを追いかけること以上に、「どんな人が自然と集まってしまうか」のほうが、ビジネスにとって大切なことなんじゃないかなと思っています。

人は、自分に似た雰囲気のある場所へ集まる。
そしてお店も、少しずつ店主の姿に似ていく。

なんだか、人間の引き寄せや相性と同じですよね。

今日も、ぼちぼち。

街で「誰かの人生」を探してしまう理由

最近、街を歩いていて思うんです。

日本って、少しずつ変わったなって。

建物の話ではありません。
働き方の話です。

 

昔は商店街に個人商店がたくさんありました。

八百屋。魚屋。文房具屋。喫茶店。

それぞれ店主がいて、それぞれの人生がありました。
愛想の良い人もいれば、無口な人もいる。なぜかいつも怒っているおじさんもいる。

 

でも、その人の性格が店に出ていたんですよね。
だから同じ商店街を歩いていても、店ごとに空気が違った。

 

ところが最近はどうでしょう。

コンビニ。ドラッグストア。チェーン店。
全国どこへ行っても、似たような看板が並んでいる。

 

もちろん便利です。品質も安定している。ハズレも少ない。
私だって利用しています。でも時々、「なぜこうなったんだろう」と思うんです。

 

考えてみると、個人で店を持つのは簡単ではありません。

税金。許認可。社会保険。経営リスク。
全部自分で背負わなければならない。

 

一方で会社員は、比較的安定しています。
収入もある。社会保障もある。住宅ローンも通りやすい。

 

もちろんどちらが良い悪いではありません。でも社会全体として見ると、個人で商売する人より、組織に所属する人が増えやすい仕組みになっているようにも見えます。

 

そして、その結果が街にも現れる。

個人商店が減る。チェーン店が増える。
店主の顔が見える店より、企業のロゴが見える店が増える。

 

そう考えると、私が感じる「変化」って、建物や文化の話ではないのかもしれません。

個人で生きる人が減り、組織の中で生きる人が増える。
そんな社会の変化なのかもしれません。

 

先日、ある調査を見て驚きました。
小学生のなりたい職業ランキングです。

男の子の1位が会社員。
女の子でも上位に会社員が入っていました。

 

私が子どもの頃なら、少し不思議なランキングです。会社員って、職業というより「状態」だと思っていたからです。

野球選手。

漫画家。

花屋さん。

パン屋さん。


そういうものが「職業」で、会社員は働き方のひとつでした。でも今は違う。会社員になりたい。

 

つまり、「何をするか」より、「どこかの組織に所属すること」そのものに安心を感じているのかもしれません。

 

もしそうだとしたら、これから先、日本の街はもっと均一になっていくのかもしれません。

 

個人商店は減り、チェーン店は増える。
店主の顔より、企業のロゴを見る機会の方が増えていく。

もちろん、それが悪いとは思いません。
便利ですし、私自身も長い間、会社員でした。

 

ただ時々思うんです。

私がどの街に行っても、つい商店街を探してしまうのは、商品を買いたいからではなく、まだ誰かの人生が見える場所だからなのかもしれないって。

 

今日も、ぼちぼち。

ぼたむすでした。

日本の学校で最初に学ぶ、“集団ゲーム”というルール

小学生の頃から、ずっと不思議に思っていたことがあります。

授業中、先生が質問すると、クラスの子たちがものすごい勢いで手を挙げるんですよね。

「はいっ!!」 「はいはいはいっ!!」

みたいに。しかも、みんな妙に“いい子っぽい顔”をしている。 ぼたむすはそれを見ながら、「なんでそんな必死なんだろう?」と思っていました。

 

別に答えたいわけでもないのに、なぜあんなに競うように手を挙げるのか、よく分からなかった。しかも、もっと不思議だったのが“行儀よくしている子”たちです。 先生の言うことをちゃんと聞き、空気を読み、静かに座り、ちゃんと褒められる。

 

もちろん、それ自体は悪いことじゃない。でもぼたむすは、子供ながらにどこか違和感がありました。

 

そしてある日、ぼたむすは手を挙げていないのに、先生に当てられました。でも本当に手を挙げていなかったので、 「手を挙げてません」と言ったんです。すると先生が少し困った顔をしたので、さらに、 「手を挙げてる人を指してください」と言いました。

 

今思えば、かなり面倒な子供です。でも当時のぼたむすには、本当に意味が分からなかった。 だって、“答えたい人が手を挙げる”ってルールだったはずですよね?なのに、なぜ手を挙げていない人を当てるのか。

 

周囲は、「先生に逆らっちゃダメ」「空気悪くなるじゃん」みたいな雰囲気。先生も呆れ顔。 でもぼたむすは、「いや、ルール違うじゃん」と思っていました。

 

しかもその後、先生に母が呼び出されて、叱られたのです。今振り返ると、あれって結構象徴的な出来事だった気がします。

 

先生が悪かったとも思わないんです。たぶん先生からすると、「みんなが参加している授業」を作りたかっただけなんだと思う。

 

でも子どものぼたむすには、それが理解できなかった。 だって参加するかどうかは自分で決めるものだと思っていたからです。

 

最近になって思うんです。学校って、勉強を教える場所であると同時に、「集団の中でどう振る舞うか」を学ぶ場所でもあったんだな、と。

 

手を挙げる。空気を読む。先生を困らせない。みんなと同じタイミングで動く。 そういうことを、私たちは自然と学習していく。

 

もちろん、それが悪いわけじゃありません。集団で生きる以上、必要な能力でもあります。 でも一方で、「なんか変じゃない?」と思ったときに、その違和感を飲み込む練習も、同時にしていたのかもしれない。

 

社会に出てからも、似たような場面はたくさんあります。みんなが賛成している。 みんなが手を挙げている。 みんなが同じ方向を向いている。

 

そんな時、「でも私は違うと思う」と言うのって、意外と勇気がいります。だから多くの人は、まず周りを見る。 誰かが先に言わないかな、と待つ。 そして気づけば、子どもの頃と同じように“空気”に従っている。

 

ぼたむすは、たぶん昔からそのゲームが少し苦手でした。それは会社員になってからも変わらず。 気がつくと皆がランチに行ったことにも気がつかず、よくオフィスに一人取り残されていました。

 

手を上げるタイミングが、いまだに分かりません。

今日も、ぼちぼち。

ぼたむすでした。

理由の言えない「好き」が、たぶん一番本物だと思う話。

最近思うんです。私たちは長い間、理由を説明する練習ばかりしてきたんじゃないかって。

 

学校では、なぜそう思ったのか。なぜその答えなのか。「理由を書きなさい」。社会に出ても、なぜその提案なのか。なぜその判断なのか。「理由を説明しなさい」。

 

気がつけば、理由のある人が立派で、理由のない人は未熟みたいな空気がありますよね。

 

でも、不思議なんです。本当に好きなものには、理由がないことが多い気がします。

花が好き。昆虫が好き。海が好き。雨が好き。あの人が好き。

「なぜですか?」と聞かれても、最後は「なんか好きなんです」になる。

 

「好き」に、理由は要らなかったはずなのに

私は子どもの頃から、ぼーっとするのが好きでした。当時はレコードやカセットテープで昭和歌謡を聞きながら、暇さえあれば絵を描いていました。

 

なぜ好きなのか。自分でも分かりません。でも好きでした。いまだに好きです。理由は後からいくらでも作れます。「人混みが嫌いだから」とか、「一人の時間が好きだから」とか。

 

でも本当は、好きになった時、そんなこと考えていなかったと思うんです。ただ好きだった。それだけです。

 

理由のない「好き」を感じる練習

最近思うんです。私たちは長い教育の中で、理由を説明するのは上手になりました。

でも、理由のない「好き」を感じるのは、少し下手になってしまったのかもしれません。

 

だから時々、自分に聞いてみるんです。

「役に立つから」じゃなく、「評価されるから」じゃなく、「儲かるから」じゃなく。

「私は何が好きなんだろう」って。

 

意外と、そこが一番難しい質問なのかもしれません。

私は相変わらず、ラジオを聞きながら、ぼーっと空を眺めているのが好きです。なぜ好きなのかは分かりません。でも、たぶんその「分からない」が、本物なんだと思います。

 

今日も、ぼちぼち。

ぼたむすでした。

東京は、誰かの目から逃げるのが難しい

サラリーマン時代、外国人の上司とふと雑談をしていた時のことです。彼がポツリと言った言葉が、いまも妙に心に残っています。

「東京ってさ、家から一歩出たら、ずっと誰かの目があるよね」

 

言われてみれば、本当にその通りなのです。家を出て、マンションのエレベーターで誰かと乗り合わせる。コンビニへ行けば、レジに人がいる。駅へ向かう道も、改札も、ホームも人だらけ。電車に乗れば、見知らぬ誰かと肩が触れ合うほどの距離。会社に着けば、もちろん人だらけ。

 

気がつくと、朝ドアを開けてから夜帰宅するまで、私たちの視界から「他人」が消える瞬間は一秒もありません。東京で、本当に誰もいない「完全な一人」になれる場所を探すのって、案外むずかしいことなのです。

 

考えてみれば、これってすごい集中力を試されている気がします。人は社会的な生き物だと言われますが、いくらなんでも「社会的すぎ」やしないでしょうか。

 

一歩外へ出た瞬間から、誰かの視界に入り、誰かの横を通り、誰かと気配を譲り合う。それを毎日、何十年も当たり前のように繰り返している。そりゃあ、知らず知らずのうちに心も身体も疲れるわけです。

 

最近、お家の中で過ごす時間を何より愛おしく感じる人が増えているのも、すごくよく分かります。お気に入りの器でお茶を淹れる。本を開く。静かに音楽を流す。

 

家の中には、私を品定めしたり、気遣いを求めたりする「他人の目」が一切ありません。24時間ずっと、無意識に「演者」として立たされていた透明な舞台から、すっと降りられる唯一の場所。それが我が家なのだと思います。

 

東京という街は、意識しないまま「見られる役」を演じ続けさせられる巨大な劇場なのかもしれません。

 

自分が主人公なのか、道行くエキストラなのかは分かりませんが、何かしらの「整った大人」の役を演じ続けている。だから玄関の鍵を閉めた瞬間、どっと深い溜め息が出る。

 

そんな深遠な「都市と人間」の考察に浸っていたのですが……。

 

後から知ったところによると、その説法をしてくれた外国人上司本人は、毎晩のように六本木のバーやクラブへ繰り出し、夜な夜な派手に踊り散らかしていたそうです。

 

……いや、人の目が鬱陶しかったんじゃないのか。

むしろ自ら人の目を倍増させに行っているじゃないか、と(笑)。

 

結局のところ、人間というのは勝手で、愛おしく、そして面倒くさい生き物です。誰の目も届かない場所でじっと殻にこもりたい日もあれば、急に人恋しくなって人の気配の中に混ざりたくなる夜もある。

「一人になりたい」と呟きながら、完全な孤立は少し寂しかったりする。

 

東京という街が疲れさせるのか。それとも、人間の心が面倒くさいのか。たぶん、両方なのでしょうね。

 

今日も、ぼちぼち。

ぼたむすでした。

AIで勝てるのだろうか

最近、AIの話をよく聞きます。AIが人間を超えるとか、AIが仕事を奪うとか。でも先日、電車の中で思ったんです。AIって、人間の椅子取りゲームに勝てるんだろうかと。

私は座っていました。目の前にはおじさんが立っています。車内はそれなりに混んでいました。すると、私の斜め45度くらい前の席が空きました。

おじさん、即反応。棚からセカンドバッグを取り、振り向きざまに座ろうとする。見事な動きです。かなり慣れています。

ところが、その瞬間。横から女性がスーッと着席。ためらいゼロ。女性、着席。おじさん、敗北。

そして面白かったのがその後です。おじさん、何事もなかったかのように、私の前へ戻ってきたんです。まるでテープレコーダーを巻き戻したみたいに。

私は思いました。ああ、人生ってこういうことあるよね、と。しかし、物語は終わりません。

しばらくして、今度はその女性の隣の席が空きました。おじさん、再び反応。今度こそ、今度こそ座れる。そう思ったのでしょう。でも女性の友人がスーッとイン。またしても着席。

おじさん、再敗北。そしてまた、私の前へ戻ってくる。なぜ。なぜ毎回私の前なんだ。もはや待ち合わせでもしているのか。知り合いなのか。

気づけば、車内で立っているのは、おじさん一人。他の人はみんな座っている。おじさんだけが、二度の挑戦と二度の敗北を経験している。

私はなんだか、気の毒なのか、面白いのか、よく分からない感情になりました。

そして思ったんです。AIは将棋で勝つかもしれない。囲碁でも勝つかもしれない。でも、このおじさんのような「あと一歩で座れない人生」まで予測できるんだろうか。

もしできるなら、次に空く席じゃなくて、おじさんの運勢を予測してあげてほしい。少なくとも、あの日のおじさんには、その機能が必要だった気がします。

今日も、ぼちぼち。
ぼたむすでした。